◆戦後に再組織される
「銀座日本料理組合」が創立されたのは、1946年(昭和21年)9月のことだった。このとき、組合の活動の基本となる組合規約が作られ、事務所を銀座3丁目3番地銀座日本料理会館内に置いた。組合の規約が印刷され、会員に配布された最も古いものとして、創立から11年を経た1957年(昭和32年)に作成されたガリ版刷りのものが残っている。そこには組合規約の他、昭和32年当時の65名の組合員の氏名、屋号、所在地が記載された会員名簿が付されている。それを見ると、当時の銀座の日本料理店の賑わいを髣髴させ、その後現在に至るまでの変遷を実感させる。組合の創設年である昭和21年は、終戦直後の混乱がようやく収まり、新しい国家と社会が建設され始めた頃にあたる。戦争中に組織された、産業報国のための業界組織が解散され、新しい思想のもとで銀座日本料理組合が再出発を図ったのであった。
<参考 銀座日本料理組合規約>
 *原文は漢字カタカナで表記。読みやすく表記を改めました。(編集部)

「銀座日本料理組合規約」
第一章 総則
第1条 本組合は銀座日本料理組合と称す。
第2条 本組合は築地署管内に於ける日本料理店営業者を以って組織す。
第3条 本組合は事務所を当分の間、東京と中央区銀座3丁目3万誌銀座日本料理会館に置く
第4条 本組合は関係官庁の監督の下に営業に関する法令示達の徹底遵守を期するとともに、帝都消費中枢地たるの観念に基き営業道徳の昂揚、業者の親睦を図り、共同施設をなしその向上発展を期するを以って目的とする。
第5条 本組合は前条の目的達成のため、左の事業を行う。
1、 営業の粛清刷新並びに指導に関すること。
2、 保健衛生の向上に関すること。
3、 調理技術の向上、日本料理の国際的昂揚、顧客接遇方法の改善に関すること。
4、 納税事務に関すること。
5、 従業員に対する指導監督並びに其の待遇改善及び表彰にかんすること。
6、 業者の福利施設に関すること。
7、 その他組合の目的達成に必要なる事項
第二章 機構 (略)
第三章 役員及び職員 (略)
第四章 会議 (略)
第五章 経理 (略)
第六章 権利義務 (略)

◆昭和初期の銀座日本料理界
銀座は1945年(昭和20年)の2月から3月にかけて受けた東京大空襲によって、現在の地番でいう銀座の街の、およそ7、8割が焼失した。そのため、銀座における戦前までの日本料理の歴史を伝える史料は、ほとんど残っていない。わずかに個別の料理屋が店舗以外の場所で保管していた個人的な記録が、史料として伝わっている。そのひとつをご覧いただきたい。撮影年月、撮影地、ともまったく不明だが、一葉の古い写真がある。服装と庭の樹木の様子から、料理店が比較的時間的にゆとりを持てる2月頃ではなかったかと想像される。場所はおそらく、当時から首都の奥座敷として好まれ、比較的短時間で足を伸ばすことができた熱海か湯河原ではないだろうか。三つ揃いの背広に旅館の庭草履を履き、参集して記念撮影しているのは、いずれも銀座に料理店を持つ経営者たち。当時は経営者イコール庖丁人であることが常識で、ここに居並ぶ男性たちは銀座が誇る有名料理屋の主人たちだったのではないだろうか。この写真の所有者が先代の父親(故人)から聞かされた話として記憶しているのは、「後列に立って写っているのは、大正末期から昭和初期にかけて銀座に料理店を開いた人々。前列はそれ以前から銀座で料理業に携わっていた先輩たち」という説明であった。

どなたがどなたか、この写真から推定できる個人名をご存知の方は、どうぞ事務局までお知らせいただきたい。
◆日本料理の東西交流
調べてみると、前列のなかには当時銀座・木挽町あたりの待合(まちあい)へ料理を出していた仕出し屋の老舗主人がいることがわかった。待合では料理人を置かず、料理はすべて外の仕出し屋に注文して取り寄せる。待合ごとに注文先は決まっていて、「田中家(その後「松山」)」と「山口」は「嵯峨野」、「河内屋」は「金扇」、「金田中」は「万くま」、というように緊密な関係を築いて相互に発展してきた。「金扇」の和田甚五郎氏は料亭「花月」の料理長だったという経歴を持つ。関西に修業におもむき、東京にもどるときに「嵯峨野」の野本源次郎氏を銀座に呼び寄せたといわれる。時代は昭和の初め頃。この同じ頃、大阪から板前割烹という新しい料理屋のスタイルを持って“東征”してきたのが、銀座7丁目の「浜作」だった。銀座に店を開いたのは昭和3年のこと。昭和の初めという時代は、日本料理の世界で何度目かの東西交流が起こった時期にあたる。1923年(大正12年)の関東大震災によって、壊滅的な被害を受けた銀座の料亭や仕出し屋が、一時的に閉店を余儀なくされた時代であった。東京での名声が高い庖丁人を、京都大阪神戸の「部屋」(=入方。料理人の紹介業)が招き、数多くの庖丁人が関西で腕を庖丁技を披露しつつ、同時に関西料理の伝統を身につけて戻ってきたといわれる。震災や戦災などの社会的大変動によって、庖丁人は働きの場を求めて移動してきた。しかし、そうした大災害がなくとも、郷里に近い場に働き口を求めたり、個人的な探求欲や興味を満たすために、大きな市場を求めて移動し、結果的に料理人の交流がはかられてきた。資料によると、江戸時代末期から京都大阪の料理人が江戸に下ってくることが多かった、という。
◆料理屋の誕生
江戸に料理屋が出現したのは、そう古いことではないようだ。江戸の初期には一般にいわれる料理屋は存在しなかった。明暦の大火(明暦3年、1657年)以降、浅草に奈良茶飯屋といわれる簡素な飯屋ができ、その後享保年間に両国や芝神明に腰掛けの小料理屋ができた。やがて次第に門前市などに屋台形式の食べ物やができ始め、もっぱら庶民料理を供していた。こうした庶民のいわばファーストフード的な店ができるのと歩を合わせて、大名屋敷の留守居役を顧客とした料亭(料理茶屋)が、次第に豪華さを見せるようになった。大名自身は参勤交代で江戸にいないこともあり、主人が留守の間は御留守居役が幕府や諸藩との交渉のため、饗応の場として料亭を利用した。ここで発展したのが本膳料理・会席料理というものだった。豪華な料亭はやがて富裕な町人階級にも好まれるようになり、料理人はますます腕を競うようになった。江戸時代に繁華街として栄えたのは、浅草、柳橋、上野、両国、深川、日本橋など。幕府や雄藩、さらにそれらと結びついた豪商が饗応や遊興に使い、大いに賑わった。しかし、明治維新を迎え、幕藩体制に代わる新しい権力の登場によって、政治に関わる繁華街の運命もまた変わった。幕府御用達によって高い格式を得てきた街に代わり、新興の明治政府役人が愛好する銀座が、台頭し始めたのだった。天皇を迎えた皇居に近く、さらに舶来文物の入り口・横浜と鉄道で結ばれた新橋に近く、時代の先端を行く新聞・出版・言論機関の多く集まる銀座。築地の市場と地続きであるという立地も、銀座の料理業発展に大きく作用した。
◆これからの銀座へ
明治以降の銀座の料理業の発展は、既に記した。震災や戦災による痛手も、東西交流という特徴に転化しながら、克服して成長してきた。また、幾度もの景気不景気の波を受けながらも、新産業の担い手を新たな顧客層としてとらえ、現在へつなげてきた。伝統ある料理店に加えて、日本各地からの新しい力を受け入れながら、総体として発展を続けている。日本料理屋の形態も変わった。料亭、料理屋、割烹、という区別を超えてさまざまな形式で日本料理が楽しまれるようになった。顧客の特性も変わり、政や官の接待として使う場から、個人で会食を楽しむ人たちのコミュニケーションの場へと変わってきている。男性の顧客に加えて、女性たちの進出も目立ってきている。どの時代にも、どの顧客層にも好まれてきたのが、銀座らしいもてなしの心と質の高い料理だ。時代がどう変わろうとも、この期待に応えられる銀座の料理業であることは決して変わらないだろう。




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